ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 教育 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年9月3日土曜日

学生たちの苦難〜長期間の大学生の就活〜

超長期に渡るこの国の不況によって、学生の就職活動は大変な苦難を強いられているようです。移動や滞在に掛かる経費や長くなった就活期間のストレスは、私たちの頃に比べ格段に強まっています。来年度に向けた就職内々定率が7月調査で53%と戦後最悪を更新しているとか。東日本震災で急激に悪化したのが多少改善されたらしいですが、それでも戦後最悪だった昨年にも及んでいない状態のようです。内々定率がこれほど悪化していると、3回生達の不安もますます増大し、企業研究やインターンシップ、企業訪問に費やす必要性を感じ、大学の研究より就活を優先することになるでしょう。

また企業の活動が国際的になるにつれ、外国の優秀な学生を確保したいという傾向も強待っていて、日本人学生との競争もますます激しくなるでしょう。若手起業家たちが日本を捨て、国外で起業を目指すというニュースをみましたが、学生も国外で渡り合える力量を身に付け、日本企業だけでなく、アジア、欧米の企業へアタックをかけるべき時代なのでしょう。

民主党で代表選が終わり、首相も交代。「回転ドア」のような、入れ替わっても大して代わり映えしない内閣であるなら、景気の回復は夢のまた夢ということになります。この国の政治に過大な期待など持たず、どこでも仕事を得る実力をしっかりと身に付けないと、充実した人生を送れないかも知れません。

頑張れ、学生諸君!

追記:前に我が娘の就活事情をちょこっと記事にしましたが、第一志望だった地方公務員の最終試験に合格したと先日メールで知らせてきました。親としては、正直「ホッ」としました。

2011年7月11日月曜日

娘の就活〜大学生編〜

大学最終学年になり、公務員一本に絞って就活をしている我が娘。民間企業をいくつかキープしておいた方が良いという私のアドバイスも聞く耳を持たず、国家公務員一種を開始に、地方公務員も含め、様々な職種の公務員試験を4月以降受験し続けているようです。
私などからすると、「公務員なんか...」という意識なのですが、この大不況の時代、安定性というところから、彼女の仲間もかなり大学の公務員講座を受講
し、共に切磋しているとか。お互い「落ちた」「合格」などの知らせに一喜一憂し、この時期、一次試験の合否が開示される度に、肝を冷やしたり、抱き合って
喜んだりしているのかも知れません。




「一種は「ダメもと」で受けた」とかで、残念な結果でしたが、








先日は、ある専門職の公務員試験の一次試験に受かったようですが、これは第一志望ではない様子。







そして、今日...








いつもは母親へのメールばかりの娘なのですが、今日午後、娘から私宛に珍しくメールが。















ある地方公務員上級職の一次試験結果で、












「一次、受かったーーーー!」










親馬鹿を十分承知で書きます。^^;









私は思わず折り返しに電話を。(いつも音声通話はほとんどしません。メールの方が何かと便利ですからね ^^; )








「お父さんも チョーー、嬉しいんだけど(^^)\(^o^)/」









若干、声もうわずっていたかも知れません。^^; (心の声:まだ二次試験をパスした訳じゃない!!)












しかし、一次でも「パス」は「パス」なのですから、小さなVサインくらいは、掲げたいではないですか。^^;









最終試験の合否が肝心であることは、確かにそうですが、こんなプロセスの途中結果も喜び合えるほうが幸せではないかと勝手に思ったりしています。後は天の配慮に期待をしておこう!(笑)(心の声:お前は「公務員なんか」ではなかったのかっ?!)








公務員でも、試験にパスすることは、喜びではあります。^^;(心の声:何と身勝手な解釈を!)









今日はいつも取り上げるテーマとは随分違い、親馬鹿丸出しの内容ですが、まぁ、ご容赦を。^^;

2008年12月26日金曜日

全国学力調査

全国学力テストで地域別成績の開示を巡って、様々な議論が起きていますね。議論だけでなく、秋田県は全面開示しました。

この全国学力・学習状況調査というのは、あの日教組攻撃更迭された中山前国土交通相が、04年文科相の時に導入した「いわくつき」の取り組みです。

「いわく付き」というのは、調査の意義について、学力の高低が日教組の力の強弱と相関しているとみなして、彼自身がその検証をも目的にして導入決定経過を語っているからです。朝日新聞は組織率と学力の高低で、その相関は見られなかったと記事にしています。中山氏は組織率が力と同一ではない言ったものの、反証出来る根拠は示していません。このように偏りのある大臣決定により導入されたのが学力調査でした。

そういう調査ではありますが、その結果の詳細を私たちが知ることが出来ないというのは、どうなんでしょうか?それを地域に返し、地域が独自に検証し、実情に応じた対応を考えていく必要があるのでは?、形骸化した教育委員会がもっと責任を果たす必要もあるのでは?、と私は思うのですが。

ただ、学力が高いからと言って、人間力があるとは私は考えていません。学力がないより、ある方が良いだろうという程度です。



単純に全国平均以上、以下の数字だけ見ても、何の意味もありません。

今宵はこれにて。

2007年3月6日火曜日

出来事

今日、地元の小学校に招かれた。と言うのも6年生が総合学習で取り組んでいる環境学習発表会のコメンテーターとして参加して欲しいと言うものだった。私の子供達は既に卒業してしまっているのだが、知合いの教師に頼まれたので断る訳にもいかなかった。

どれほどの内容を発表してくれるのか、楽しみだったのだが、、、個々の教師の力量にもよるのかもしれないが、あまりにも拙い内容に少し落胆する。調べ学習の方法にも色々あるだろうに、子供達への教師の導きが弱すぎるのではないか?と感じてしまった。具体的な事をここで明らかにする事は出来ないが、学校を取り巻く地域住民の意識や教師集団の力量で、学習内容に差が出てくるであろう事は、容易に推測出来た。

現在、将来の国の有り様について様々な議論がある。中央と地方という図式を通してみる時、一次、二次産業が衰退、弱体化しつつある地方では、
さまざまな部分で格差が生み出されつつあり、広がっていると言うのが実情なのだ。過去数十年に渡って、中央部に人を吸い出されてた挙げ句、地方分権の名の下に「地方は地方の力で生きていけ」という政治の流れが作られてはたまらない。しかし、振り返ってみれば、中央集権体制に甘んじていて、独自の力を蓄えて来なかった地方にも甘えがあったのは確かなことだろう。

こうした中で、力を蓄えるのは、いかにその土地に密着した人材を育てるかであり、その教育力こそ未来の希望を産み出す源泉なのだ。今日、小学校の学習に参加してみてその思いを強くした。たかが小学校、されど小学校での学びなのだから。

2006年11月23日木曜日

続いてます。雨

今、ニュースサイトを見ると、灰谷健次郎さんの死去のニュース。「せんせいけらいになれ」「兎の眼」「太陽の子」など児童文学の範疇を越えた著作を残した作家です。特に「兎の眼」については、私の子供達が小さい時に読み聞かせをした程、私も大好きな本でした。 それぞれ好悪はあるでしょうが、様々な矛盾を作品に反映させながら、思考を続けていく灰谷作品の支持者です。

それにしても、私の若かりし頃、影響を受けた人達の訃報が続きます。もっとも私もそれなりの年齢になっているのですから、当然と言えば当然なのですが、寂しいですね。ほんとに。こういう寂寞感が強くなると言うことが、歳をとっていくことなのでしょうか?うーむ、気分を変えましょうね。(^^ゞ
今日も雨の一日でした。明々後日は東京へ。天気は悪いのでしょうかねぇ。。。悪天は嫌だなぁ。冷え込む予報も出ているので、どうなることやら。。。

昨夜、ある人から薦められた「14歳の母」というTVドラマを初めてみました。かなり前、多分80年代?「3年B組金八先生」でも同じテーマを取り上げていたように記憶していますが、この「14歳‥」は家族の視点に重きを置いた作り方なのでしょうか。今、まさに国レベルでは教育に関する法律の中で、家庭の規範意識まで踏み込むような新案を参院で審議中です。今の政権中枢の人達は、このような未成年の性交渉については、道徳的観点からはどのように判断するのでしょうか?

道徳と言っても、宗教的なものから哲学、思想、政治的なものまで、それを含む概念は広いものです。単純に割り切れるものではありません。戦後の日本は、一律的な道徳観から世界的にも稀な程、解放されていた期間をもった国だったと私は思います。つまり許容度が奇跡的に広く、様々な価値観が存在出来た素晴らしい期間だったと思うのです。こうした事を、今、「見直し」という言い方で、変えていこうとしているのではないか?何かに凝り固まるというのは、私は面白くない社会になると考えています。

と、ここまで来て、「はっ」と。どうも、いけませんねぇ。。。(^◇^;) 私の思考回路が、凝り固まってる?(爆笑)

2006年11月13日月曜日

ちょっと待てよ!

「いきぐるしい」と書く時、「息苦しい」と書くのが通常の使い方だが、「生き苦しい」と書く方が今は現実的なのかも知れない。それくらい連日、殺人、自殺の事件が多い。

ここ何日かは、いじめや履修不足の対応に追われた高校の校長だったりする。追い込まれた末の衝動的な自殺なのだろうが、「命の大切さ」を見せるのであれば、自ら果てる選択はないはずで、どのような苦境でもそれを乗り越える姿をこそ見せるべきだったのでは?と亡くなった人には申し訳ないが、思うのだ。命を捨てて「責任を取る」などと言うのは、明らかにすべき事柄を切り捨て、闇に葬る以外の何物でもないのだから。

2006年11月3日金曜日

とりとめなく思うこと

更新が滞りがちだなぁ・・・ 
秋も深まってきたとは言え、まだここら辺では紅葉もそれ程でもない。冷え方が強くないせいかもしれない。

それに8月中旬以降、雨らしい雨が降っていない。記録を見ると、8月25日に本格的に降った後、9月13日にほんのお湿り程度降っただけで、後はほとんど晴天が続いている。秋の長雨もなしだ。土は乾燥しきっている。これも気象変動のせいなのだろうか?

このところ写真を撮っていない。晴天続きだから、撮ろうと思えば撮れるのだが・・・気分が乗らないせいにしておこう。

ちょっと疑問に思うこと(その1)

北朝鮮がやったこと(拉致、紙幣偽造など)は、許される事ではないという前提で。
拉致被害者の支援組織について、「善意だけの活動なんだろうか?」と「?」が付くような雰囲気を感じることがある。いくつかの地方支援組織のWebサイトをみると、右翼のサイトと見紛うようなサイトデザインだったりする。まぁ、それはセンスの問題かも知れないので、良しとしても、募金活動をしているはずなのに、その収支明細が明示されてるところと、されていないところがある。どんな用途に使われているのか、募金者達は疑問に思わないのだろうか?

ちょっと疑問に思うこと(その2)

前にも書いたことだが、NHKの国際短波放送に対して、「拉致問題を重点的に放送するように」と個別的内容に踏み込んで、放送命令を出すらしいが、NHKはこれに対してどう対処するのだろうか?いや、NHKに所属している各個人(特に記者達)はどう反応するのだろうか?とても関心がある。

ちょっと疑問に思うこと(その3)

「教育改革タウンミーティングでやらせ質問、内閣府作成
 今年9月2日に青森県八戸市で開かれた政府の「教育改革タウンミーティング」で、内閣府などが教育基本法改正案に賛成の立場で質問するよう参加者に依頼していたことが1日の衆院教育基本法特別委員会で明らかになった。
石井郁子議員(共産)が内閣府や青森県教育庁などが作成した文書を基に指摘し、政府もこれを認めた。

 文書は、青森県内の教育事務所と同県教育庁が、地元の中学校長あてにファクスで送った2種類。一つは「タウンミーティングの質問のお願い」として、三つの質問案を示し、そのうちの一つを質問するよう依頼している。

 もう一つの文書は「内閣府から以下のとおり発言の仕方について注意があった」として、<1>できるだけ趣旨を踏まえて自分の言葉(せりふの棒読み はさけてください)<2>「お願いされて」とか「依頼されて」と言わないで下さい(あくまで自分の意見を言っている、という感じで)――などと、アドバイ スしている。

 1日の委員会質疑で、内閣府の土肥原洋総括審議官は「活発な意見を促すきっかけを作る目的で参考となる資料を提供することもある」と弁明した。塩崎官房長官は同様の事例が他にもあるかどうかについて「調査をして報告する」と述べた。(2006年11月1日19時41分 読売新聞)」

この読売新聞サイトのニュースを見ると、教育基本法改正への内閣、政府のあざとい本音が透けて見える。内閣府の職員だけの勇み足だけだったのだろうか?

ちょっと疑問に思うこと(その4)

熊本県以外の45都道府県の公立、私立の高校で履修不足が発覚。そのほとんどが受験体制へのシフトの結果ということだが、少子化の波の中で、手っ取り早くイメージアップになるのが大学進学率となるのだろう。その中で生徒も学校も大学受験の成果を上げることに血道をあげているのが実態なのだから、「さも、ありなん」と言うのが私の感想だ。今回はセーフだった熊本県にしても、過去に履修不足が見つかり、以後、県教委がチェックしていたからに過ぎない。
それにしてもだ、「教養」とか、「知への関心」という観点から見ると、色々偏りも出てくることになると思うなぁ・・まぁ、教科書の知識で、まかなえる事でもないのだが、面倒でも教科での学びが興味・関心の切っ掛けになることもあるのだから、授業は受けていた方が人生の血肉にはなる。たとえ受験に必要がなくても。生徒諸君はどう思うのだろうか?

庭の木で、百舌鳥(もず)のさえずりが聞こえている。今から映画を観に行くとしよう。では、本日はこれにて。

2006年10月28日土曜日

ニュースの読み方

毎日、大小様々なニュースが様々なメディアを通して流れている。 もちろんネット上でもだ。ここ何日間は全国に拡がりを見せる「履修不足」問題や教師による生徒のいじめ自殺問題。24日に富山の高校からこの問題が発覚。そして全国へ。後者は福岡など他にも。
しかし「履修不足」が何故今、このタイミングで発覚したのだろうか?まさに教育改革を掲げる阿部内閣直下に「教育再生会議」なるものが発足したばかりの時だ。なんだか、タイミングが良すぎるなぁとついうがった見方をしてしまう。ニュースを単に聞くだけなら、この教育現場の現状に呆れるしかないのだろうが、「ちょっと待てよ」と立ち止まってみた方が良い。物事は「木だけを見ず、森をみる」事が肝要だと。

私は今の学校が全て満足出来る教育をしているとは思っていない。しかし、思うのだ。教師たちにとって、猫の目のように教育政策が変っていく中、子供たちへの指導法も刷新しなければならず、悩みも多かったのではないかと。しかも、少子化で親たちの視線も学校教育へ、より厳しくなっている。それに学校間の目に見えぬ競争意識や学校管理体制の変更(校長への権限の集中)など、その精神的な圧迫感は相当なものではないかと推測できる。もちろん、そのストレスを理由として、教師たちの犯罪や子供たちへの卑劣ないじめなどが許されることにはならない。駄目教師がいることも事実だと我が子を通して知ってはいる。
だが、その教師たちだけが責めを負うものではないだろうとも私は思っている。
罰則を強化したところで、現場に子供たちと夢を共有出来る素地が生まれなければ、ほとんど効果は期待出来ないだろう。

それこそ社会のリーダーたるべき人間達の絶えざる腐敗、単純な「ワンフレーズ」による思考停止や弱肉強食の競争原理導入などが、その土壌を産み育てて来ているのだと。
「教育改革」を言う現政権にとって世論を味方に付けるのに、これらのニュースが打って付けのものだったことは確かではなかろうか。

2006年8月1日火曜日

プール事故

 昨日、埼玉で起きたプール事故は、かわいそうな事故でしたね。プールの流れを作るポンプの吸水口の柵がずれ落ち、そこに小学2年生の女の子が吸い込まれてしまい、亡くなったというものです。監視員等の目前で起きてしまったようです。彼等は何故、柵がはずれた時点で客を水から上げなかったのでしょうか?何故ポンプを直ぐに止めなかったのでしょうか?「吸い込まれたら、命に関わる」と想像出来なかったのでしょうか?

 皆さんは今まで、命に関わるかも知れなかったという瞬間を経験したことはありますか?私は子供の時以来、何度か経験しています。小学生の時、木に登っていて寄りかかった枝が折れ危うく下まで転落するところでしたが、「運良く」その下の枝に体が支えられ転落を免れました。同じく小学生の時、川で泳いでいて急流に流されて溺れそうになりましたが、なんとか岩につかまることが出来て命拾いをしたこともあります。また、長じて大学生の時、冬の北アルプスの稜線を進んでいる時、足を乗せた場所が岩場から張り出した雪をかぶった這い松の枝で、もし完全に体重を乗せていたら、スッパリと切れ落ちた谷に真っ逆さまだっただろうと言うこともありました。その他にも山では何度か、命拾いの経験があります。

 こうして考えてみると、今まで良く生き延びてきたなぁと感じます。もっとも、戦乱などと言う、さらに命の危険と隣り合わせというものではありませんけどね。でも、なんと言うのでしょうか、そうした経験が危機を感じる感性とでも言うのでしょうか、そういったものを養ってくれたと思うのです。戦乱などという極めて特殊なものでなくても、いわゆる「普通」の生活の中にも、命の危険は潜んでいるわけで、人はそれぞれ身に付けた「危機センサー」で、身に降りかかる危険をなんとかやり過ごしているような気がします。

 現代は「安全」に対して様々な機能、配慮、告知については、私が子供だった時より格段に整っているのですが、それより大事(だと、私は思うのですが)な危険を察知する感性を身に付ける事が出来ているのか、はなはだ疑問です。そうした感性を身に付けていても、危険から100%逃れられないのが、「人が生きていく」ということなのでしょうけどね。

 今夕、曇りながら空が紅く染まっていたので、今宵の画はそれにします。

2005年2月25日金曜日

受験シーズン真っ盛り

 私の子供も今受験の真っ最中だ。しかも息子、娘の大学高校のW受験。親は何とも しようがない。自分達が与えた遺伝子の能力に任せるより他はない。「出藍の誉れ」や「鳶が鷹を産む」などは、はなから望むべくもない。

 しかし、気にしない ようにしていても、どこか心中穏やかとは言えないのが情けない。世間の親とは違うと思いたくても、実は世間並みだったと言うことだろう。

 それにしても進学に伴う費用の馬鹿高いこと。国立大学の学費もうなぎ登りだ。国立大学が富裕層の人たちのための大学になるのも時間の問題だろう。

 今、日本は競争社会へと進路を切り替えた。このまま進めばアメリカ同様、富むものと貧しきものとの格差が広がって極端な階層社会になっていくのだろう。この選択が国民に幸福をもたらすのか、、、

 何はともあれ、社会は変わり、歯車は回っていくのだ。