2005年5月13日金曜日

起こりうること

 死は日常的なことでありながら、普通の人々にとって、その事に向かい合うことは非日常的なことだ。命に限りがあることは誰もが知っている。しかし、それを目前に、もしくは目の当たりにすると、人々は戸惑い混乱し、悲嘆にくれる。

 つい先日もまさかと思っていた鉄道事故によって、多くの人の命がなくなった。夢を描いて入学したばかりの大学生や、一家の大黒柱、家族、友人にとってかけがえのない人々が、人間がある一定の確率で犯すであろうミスのために命をなくしたのだ。悲しいことだし、かわいそうだと思う。

 私の友人も一年前突然の事故で亡くなった。ほんの些細な油断か、気のゆるみがあったのか分からないが、死んでしまった。最も気心の許せる親友だったので、私の受けたショックは並大抵のものではなかった。

 しかし、生きていくと言うことは、誰であれ死に直面するリスクを負っているのだと思う。それが理不尽なものであれである。「覚悟」というと、大袈裟だが、これが現代の私たちに必要なものなのかもしれない。

ネットの危うさ

 今日のニュースに、またネットを使った犯罪が出ていた。少女監禁だ。ネットの匿名性を利用したものだそうだ。ネットの匿名性は利用の仕方次第で『両刃の剣』になる。

 ネットの世界が、いつも目にする大通りを歩いているのと同じだという事を知 るべきだろう。大通りを行き交う人々が、どんな人達なのか分からないのと同じく、ネットの世界を跳梁している人達がどんな輩なのか分からない。人殺しもい れば、心優しき人もいるということを。

 若い人達の間で「ナンパ」が至極当然に行われているのを見ると、ネットの世界でも同じなのかと思ってしまう。ネットは顔が見えない世界だと言うことを肝に銘じようではないか。観察する材料があまりにも少なすぎるのだと言うことに、もっと注意を向けておこう。