今日、人間ドックを済ませる。とりあえず異常は見られず。
終わって車に戻ると、中はムッとするほど熱気が。
朝からかんかん照りの太陽に、窓を閉めた車内の空気が夏のような熱気を帯びていた。車外の気温も20度を軽く超えているのだろう。窓、サンルーフをフルオープンにして走る。セーターを脱ぎ、シャツも袖をまくり上げて丁度良い。
2月も終わりを迎える時期ではあるが、この気温の高さは何だ?小春日和を超え、初夏並みの陽射しのようだ。春以降の気象がどんな顔を見せるのか、気になるところではある。
2007年2月24日土曜日
「美しい国」と「こうのとりのゆりかご」
「美しい」という形容詞が、さして美しくもない現政権によって喧伝されてる。殊更に「美しい」などと装飾をされると、逆にまっとうな中身を持っているものさえ、醜く見えてしまうのは、何故か?
昨年来、熊本市の慈恵病院で準備されてきた遺棄されてしまう赤ちゃんの命を救うための「こうのとりのゆりかご」設置申請に対して、政府部内から批判的な声が出され始めた。
慈恵病院では中高生などへの性教育出張講座の取り組みや意図せぬ妊娠で悩む女性達の電話相談などの活動を通して、平成16年以降先進地のドイツの視察を経て、昨年「こうのとりのゆりかご」設置申請を熊本市に対して行ったものだ。(注:赤ちゃんポストと言う呼称はドイツでの呼称であり、この慈恵病院では使っていない)
その申請を受けた熊本市は「前例がない」「法的な問題の判断」など、様々な理由で厚生労働省へ問い合わせをし、今月になって厚生労働省が口頭ではあるが、設置について「不許可の理由はない」との判断をしたばかりだ。そこに先ほど書いたように、
安陪首相「ポストという名前に大変、抵抗を感じる。親として責任を持って産むことが大切ではないか。すでにそういうお子さんたちに対応するための施設等もある。匿名で子供を置いていけるものをつくるのがいいのかどうか。大変抵抗を感じる。」という発言や
「産む装置」発言の柳沢厚労相「失われなくてもいい小さい命が生後継続できるという非常にありがたい面がある一方、子どもを他に委ねてしまうのを助長する懸念がないのか」、
高市早苗少子化・男女共同参画担当相の「無責任に子どもを捨ててしまうというようなことが促進される結果になっては元も子もない。議論を深める必要がある」
(以上各大臣の発言要旨はasahi.com2007.2.23による)
など設置の流れに水を差す発言をしている。
それにしてもだ、新生児が遺棄されたり、殺されたりしている現実への対処が現行の施策でまかなえるのなら、こうした遺棄や殺人は起きていないはずではないのか?ところが事実はその逆だから、直接望まぬ妊娠の相談に対応している現場から、「少なくとも赤ん坊の命は救おう」という取り組みなのだ。官僚や政治家の発想の貧しさを悲しむのみである。彼等政治家の発言のどこに「美しさ」があるのだろうか?しかも、取り組み自体への認識すら垣間見えないのだから、情けないという他はない。
昨年来、熊本市の慈恵病院で準備されてきた遺棄されてしまう赤ちゃんの命を救うための「こうのとりのゆりかご」設置申請に対して、政府部内から批判的な声が出され始めた。
慈恵病院では中高生などへの性教育出張講座の取り組みや意図せぬ妊娠で悩む女性達の電話相談などの活動を通して、平成16年以降先進地のドイツの視察を経て、昨年「こうのとりのゆりかご」設置申請を熊本市に対して行ったものだ。(注:赤ちゃんポストと言う呼称はドイツでの呼称であり、この慈恵病院では使っていない)
その申請を受けた熊本市は「前例がない」「法的な問題の判断」など、様々な理由で厚生労働省へ問い合わせをし、今月になって厚生労働省が口頭ではあるが、設置について「不許可の理由はない」との判断をしたばかりだ。そこに先ほど書いたように、
安陪首相「ポストという名前に大変、抵抗を感じる。親として責任を持って産むことが大切ではないか。すでにそういうお子さんたちに対応するための施設等もある。匿名で子供を置いていけるものをつくるのがいいのかどうか。大変抵抗を感じる。」という発言や
「産む装置」発言の柳沢厚労相「失われなくてもいい小さい命が生後継続できるという非常にありがたい面がある一方、子どもを他に委ねてしまうのを助長する懸念がないのか」、
高市早苗少子化・男女共同参画担当相の「無責任に子どもを捨ててしまうというようなことが促進される結果になっては元も子もない。議論を深める必要がある」
(以上各大臣の発言要旨はasahi.com2007.2.23による)
など設置の流れに水を差す発言をしている。
それにしてもだ、新生児が遺棄されたり、殺されたりしている現実への対処が現行の施策でまかなえるのなら、こうした遺棄や殺人は起きていないはずではないのか?ところが事実はその逆だから、直接望まぬ妊娠の相談に対応している現場から、「少なくとも赤ん坊の命は救おう」という取り組みなのだ。官僚や政治家の発想の貧しさを悲しむのみである。彼等政治家の発言のどこに「美しさ」があるのだろうか?しかも、取り組み自体への認識すら垣間見えないのだから、情けないという他はない。
2007年2月23日金曜日
初鳴きか?
今朝、ウグイスのさえずりが庭から聞こえる。今年初だと思う。桜前線や紅葉前線と同じく、このウグイスの初鳴きも「生物季節観測」の対象らしい。環境省の「四季のいきもの調査」に1961年から30年間の平均が図示されている。これによると2月23日というのは、ここ熊本では多少早めになるようだ。しかし、もっと驚くのは東北の福島県で2月14日に初鳴きが観測されたことだ。平年に比べ25日も早い初鳴きらしい。
とこう書くと、これも温暖化なのか?と思いたくなるのだが、温暖化という現象自体にまだ未解明な部分があるらしい。現状は温室効果ガス、中でもCO2犯人説が中心になっているのだが、どうやらそれも未解明部分を残した気象シミュレーションによる仮説というもののようだ。潮流はすでにCO2に照準があたり、科学的根拠のない政治的妥協の産物である温室効果ガスの排出削減割り当て数値目標実現に向けて動いている。しかもその排出権を売買する市場すら出現している。
今、身近に見られる気象的な変動が、いったい何に起因しているのか?大きな潮流だからと言って、今盛んに叫ばれている事が真実だと即断出来ない。「不都合な真実」に見られる現象が、「不都合」な理論を潰してしまわないことを祈りたいものだ。まぁ、それでも地球の空気の組成を出来るだけ生物にとって理想的な状態に維持する努力を止める必要はないのだが。。。
とこう書くと、これも温暖化なのか?と思いたくなるのだが、温暖化という現象自体にまだ未解明な部分があるらしい。現状は温室効果ガス、中でもCO2犯人説が中心になっているのだが、どうやらそれも未解明部分を残した気象シミュレーションによる仮説というもののようだ。潮流はすでにCO2に照準があたり、科学的根拠のない政治的妥協の産物である温室効果ガスの排出削減割り当て数値目標実現に向けて動いている。しかもその排出権を売買する市場すら出現している。
今、身近に見られる気象的な変動が、いったい何に起因しているのか?大きな潮流だからと言って、今盛んに叫ばれている事が真実だと即断出来ない。「不都合な真実」に見られる現象が、「不都合」な理論を潰してしまわないことを祈りたいものだ。まぁ、それでも地球の空気の組成を出来るだけ生物にとって理想的な状態に維持する努力を止める必要はないのだが。。。
2007年2月18日日曜日
2007年2月17日土曜日
2007年2月15日木曜日
あたかも春?
2007年2月13日火曜日
2007年2月10日土曜日
2007年2月1日木曜日
根元的残虐性とは
肉親や身内を殺してしまう事件が頻発してる。子殺し、夫、妻殺し、親殺しなどなど。
「なんてひどい事をするのだろう?」
「普通じゃないんだろうね」
「考えられないことだよ」
「狂っているとしか。。。」
等が、私やあなたの周囲の反応ではないだろうか?
殺すだけでは足りず、切り刻むなど、通常の感情では出来るはずもないだろうが、どうなのだろう?
例えば、戦争においては敵の死体を損壊することなど、よく聞かれる話である。ベトナム戦争のときのスクープ写真に、米軍兵士が殺した南ベトナム民族解放戦線兵士の首を切り落としたり、耳をそぎ落として持っている写真がある。もっと遡れば日本が中国を侵略していた時に、中国の人を斬り殺したり、妊婦の腹を裂いて、胎児を引き出したりしていた事例もあったと聞く。鬼畜と呼ばれた所以だ。
人間という生き物は、ストレスがある限度を越えてしまうと、鬼畜と呼ばれても仕方がない動物に、いとも容易くなり果ててしまうという証左ではないだろうか?特殊な人に限らず、あなたや私でも成りうるという事だ。もちろん、その限界値というのは、人によって個人差はあるだろうが、限界を超えると誰しも成りうる。
私たちが心しておかねばならぬ事は、如何に限界を越えぬようにするか、その方策を持っておくことなのではなかろうか?
「なんてひどい事をするのだろう?」
「普通じゃないんだろうね」
「考えられないことだよ」
「狂っているとしか。。。」
等が、私やあなたの周囲の反応ではないだろうか?
殺すだけでは足りず、切り刻むなど、通常の感情では出来るはずもないだろうが、どうなのだろう?
例えば、戦争においては敵の死体を損壊することなど、よく聞かれる話である。ベトナム戦争のときのスクープ写真に、米軍兵士が殺した南ベトナム民族解放戦線兵士の首を切り落としたり、耳をそぎ落として持っている写真がある。もっと遡れば日本が中国を侵略していた時に、中国の人を斬り殺したり、妊婦の腹を裂いて、胎児を引き出したりしていた事例もあったと聞く。鬼畜と呼ばれた所以だ。
人間という生き物は、ストレスがある限度を越えてしまうと、鬼畜と呼ばれても仕方がない動物に、いとも容易くなり果ててしまうという証左ではないだろうか?特殊な人に限らず、あなたや私でも成りうるという事だ。もちろん、その限界値というのは、人によって個人差はあるだろうが、限界を超えると誰しも成りうる。
私たちが心しておかねばならぬ事は、如何に限界を越えぬようにするか、その方策を持っておくことなのではなかろうか?
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