2008年8月28日木曜日

北京五輪の宴の後

様々な問題を内包した大会でしたが、それ自体はどうやら閉幕し、もう余韻も微かになった頃かと思います。しかしその微かな余韻の中で録画ニュースを見たりすると、選手たちが見せた競技後の表情に彼等の思いが凝縮していて、思わず共感してもらい泣きをしてしまったりします。

開催国の思惑は別にして、各競技のシーンにはたくさんの見所がありました。中でも私の印象に残ったのは、陸上競技の男子4×100mでした。何と言っても男子にとって陸上トラック競技では初めてのメダル。予選でのバトンパスミスで上位チームが失格した幸運はありましたが、バトンパスも含めての競技がリレーなのですから、堂々の結果でした。特に引退を決めている朝原選手や不調だった末続選手にとっては、かけがえのない銅メダルだったのではないでしょうか。

選手たちの熱気が去った北京やその他の会場となった都市は、熱狂の後どうなっているのでしょうか?強制帰郷させられた出稼ぎ者たちや路上売人たちがまた参集してきて、会期中は塀で隠された混沌の街区の賑わいを取り戻しているのでしょうか?

この北京五輪は、市場化してきたとは言え、まだまだ一党独裁国家だという事実を、明確に世界に示した祭典でした。宴の狂騒後、どのような変化を見せるのか、注目していきたいと思います。

2008年8月12日火曜日

集中する力

いろいろ問題のある北京オリンピックではあるが、参加している選手たちは最高のパフォーマンスをどう発揮するかに集中してほしいものだ。その中で、水泳の北島選手とバドミントンの末綱・前田組の活躍にはすがすがしいものを感じた。

アテネで二種目一位という北島選手にかけられてきたプレッシャーは凡人には知るよしもないが、潰されそうなものだったに違いない。そうした圧力を打破しての勝利は、見事と言うしかない。

かたやバドミントンの末綱・前田組は、華やかなスポットライトに照らされる美人コンビの陰に隠れ、臥薪嘗胆の気持ちだっただろう。しかし、活躍の兆しはオリンピック以前に既に見えていた。それは7月13日にあった全日本実業団選手権の最終日にオグシオ組に完勝していたのだ。

オリンピックに出るくらいの実力を持った選手たちではあるが、その彼等の心の有り様で、舞台でのパフォーマンスに陽が差したり、陰ったりする。そんなものが垣間見えるのもオリンピックの面白さなのかも知れない。

2008年8月9日土曜日

祭典と戦争

昨夜から、日をまたぐ時間に北京ではオリンピック開会式が始まりましたね。平和の祭典、スポーツの祭典としてのオリンピックの開幕に合わせるかのごとく、戦いの火ぶたが切られようとしています。競技の戦いではなく、殺し合いの戦いとして。

トルコの北隣にグルジア共和国という国があります。旧ソ連邦から分離独立した国の一つです。そこで今まさに戦争が始まろうとしています。グルジア内の親ロシア地域で、分離独立派が支配する南オセチア自治州にグルジア軍が侵攻し、対してロシア軍がグルジアに攻撃を開始しているニュースが報じられています。

スタジアム「鳥の巣」での開幕式典は、壮大なスケールと豪奢な演出で見る者を圧倒する内容ではありましたが、この時間にもグルジアでは銃火によって弱い人々が傷ついていると考えると、華麗な演出の裏にある中国でのチベット族の悲哀や地震の被災者の怨嗟の声が合わさって、灯された聖火が戦火に焼かれる炎にも見えてしまいます。

「これはこれ、それはそれ」という考え方が多いかも知れませんが、どうもお祭り気分にはなれそうもありません。

2008年8月7日木曜日

とても変!北京でのオリンピック

開催が間近に迫る時期にチベット族弾圧と四川巨大地震によって、相反する批判と同情を世界から示された中国で、ついにオリンピックが始まりますね。市民を遠ざけ異様な警備付きの聖火リレーや各種競技が開催される会場周辺の移動ミサイルまで登場させる警備の姿を見るにつけ、これが「スポーツの祭典」と言えるのかと疑問を持ってしまいます。何のために北京市、いや中国はオリンピックを招致したのでしょうかね。国外からの様々な批判に対しては、「政治を持ち込むな」と聞く耳を持たず、自画自賛の開催キャンペーンに懸命なところを見てしまうと、本当に興ざめしてしまいます。

各競技に参加する選手にとっては開催地が何処であろうと、最高の目標に向けて払ってきた成果を見せる舞台なのでしょうから、精一杯のパフォーマンスをと思いますが、主催国の姿勢があまりにも理不尽過ぎると、「北京市内のホテルの予約率が悪い」などと聞くと、「そりゃ、当然だわ」と毒入りギョウザを食わされた側から言いたくもなるのです。

それに、この度登場した高速鉄道もヨーロッパの車両技術と日本の新幹線制御技術によって建設されたものを、あたかも国産技術による達成のごとく喧伝する辺りに、まだまだ開発途上の精神性が垣間見えたりもするのです。ああ、模造技術も大したものでした。まぁ、これらは結局のところ、コンプレックスや羨望がなさせるものなのでしょう。

今回の北京でオリンピックを開催する意義を考えてみるに、衆目を集めたことによって、自国の基準と他国のそれとを比較する良い機会にはなっているのではないかと思うのです。盲目的愛国者はどこの国にもいるものですから、彼等は別にして、客観的思考が出来る人達には、良い機会になるのではないかと。慣れ親しんだ常識が、非常識かもしれないと考え始める切っ掛けになると期待しましょう。