2016年2月18日木曜日

言動に責任を取れない議員たち〜下衆どころか、滓(かす)以下の輩ども〜

 税金から歳費を給してもらいながらまともな仕事もせず、ひたすら私事(不倫、国会休んで遊び旅行)に多忙だったり、政務活動費の詐取、弁護士の経歴を持ちながら、人種差別発言、また精査を欠いた無責任な発言をする議員達。また極めて物騒な事を平然と言い放つ大臣(例、政治的不公正を理由にした電波停止を公然と言い放つ高市早苗とか)

 どうしてこうした輩たちを国や自治体の議会に送り出すのだろうか?選挙を通して、個々の人物を見極めるのは、確かに至難の業だ。選挙期間も金満選挙防止を理由にどんどん短くなり、表面的要素で決めざるを得なくなっているのも事実だ。

 ただ、政党に属する候補者であれば、そこに候補者として選んだ理由があるはずだが、 いざその人物が不祥事を起こしても、批判の対象に選んだ側の責は問われてこなかったように思う。まぁ、問いようがない部分もあるが、それを承知のうえでも、、政党としての責任ある選択が行われていない事を証明するようなものだと、最近の事例を見て強く思うのだ。

 また、更に思うのは、どうしてこうした極めて異常とも言える行動や発言が政権党の議員の中に頻発するようになったのかと言うことだ。慎重に発言すべきことでも、閂がゆるく、奔放な言動として出てくるようになったのには、必ず理由があるはずだ。

 そういう発言を許す雰囲気が政権党に醸されているからではないかと、私は思う。さらにそういう思い切りよく物を言う輩が起こした政治集団が政党になり、政権党のリーダーもそういう人物等と親近感があるようで、似た者同士なのかもしれない。だから、先に例を上げたような輩たちがはびこり始めているのだろう。

2016年2月12日金曜日

育休中に充実不倫の予定だった?

 まぁ、欲望の塊が人間と言うことであれば、不倫のひとつやふたつ、どうってことはないのかもしれない。しかし、仕事が国会議員というのであれば、立法府の仕事をしているわけだから、少なくとも倫理性が大きく問われるのは、致し方ない。

 ヨーロッパの中でも、フランス等では議員であっても、男女間の様々な事柄には、結構寛容と言われている。 しかし、イタリアのベルルスコーニ首相が未成年者の買春が明らかになった時には、さすがに大批判の対象になった。性的寛容さにもお国柄はあるだろうが、どこまでも好き放題という国はないだろう。

 ただ、この宮崎謙介という人物がどうこうというより、こういう人物を国会に送り出した選挙民の選択眼の無さに非があると私は敢えて言いたい。周辺にいた同僚たちからも「チャラ男」とみなされていたと言うのだから、その性癖がどういうものかというのは、既に分かっていたはずなのだから。

 それにしても、こういう輩を自党の候補として推薦しているという選挙区のその他大勢の政治屋達の眼力の無さが露呈していると言うべきか。

2016年2月11日木曜日

沖縄市議(浜比嘉勇氏)の発言から考えた事

 発浜比嘉勇沖縄市議発言の詳細はニュースソースに譲るとして、普天間基地の辺野古移設や翁長沖縄知事の記事が偏っているとして、「琉球新報」「沖縄タイムス」の購読停止や新聞は公平、公正、中立であるべきなどと開会中の議会質問で発言したらしい。

 ここで「公平(equality)」と「公正(equity)」の大きな違いを論じたところで、彼の人物には理解できないでしょうから、メディアが自ら問い続けなければならない事を考えてみようと思います。

 今、沖縄が置かれている状況確認から始めましょうか。
沖縄県内の
米軍基地関係総面積 231,761,000㎡
米軍専用施設・区域 228,072,000㎡
県土面積に占める割合 10.2%
という事ですが、均しての数字ですから、地域で見ると
北部           19.7%
中部           23.5%
南部             0.6%
宮古             ー
八重山         0.2%
沖縄本島   18.3%
となっているようです。

島によって占有率は異なるとしても、沖縄本島の地域別割合を見ると、もうありえないほどの率という事がわかります。

こんな占領地の様な状態を甘受せよとでも言いたいのでしょうか?

市議の質こそ問うべきと言えます。

山岳遭難について 〜2013年12月富士山頂上付近での滑落 救助出来なかった件〜

 腰椎手術を経た腰の状態ゆえに、最近はまったく山岳へ出かけることもなくなりましたが、冬山の醍醐味や目標を達成した時の高揚感は、いまだに新鮮に思い起こします。そういう私なので、高山の話題やニュースにはどうしても目がいってしまいます。

 ここ最近のニュースで、ちょっと「?」と思った事例について。
全国紙などのニュースによると、2013年12月の富士山へ京都勤労者山岳連盟のパーティーが雪上訓練を兼ねて登山し、頂上付近で4人が全員アンザイレンしたまま滑落し、二人が亡くなり、もう二人も重症を負った。そして、結果的に亡くなった男性一人が、最初の救助時点でヘリに釣り上げようとしていて失敗し、その日に再救助出来ず、翌日救助されたものの、死亡が確認されたという内容でした。その後亡くなったメンバーの遺族が救出失敗の過失責任と損害賠償を求めて訴訟を起こしたとのニュースに違和感を持ったのでした。

 その遭難では別の登山パーティーが救助に参加し、現場での状況の概要をブログで発表しているのを読みました。また、当事者である京都勤労者山岳連盟の遭難報告書もまとめられて、有料で手に入る状態になっているようです。(私は報告書はまだ読んでいません)
亡くなった方がいる遭難について外部者が安易に評論するのも如何なものかという気持ちもあるものの、山に関わっていた事がある私としては、正直、違和感を持たざるを得ないのです。

 登山という行為は、そもそも自己完結を前提とした冒険行為であると私は考えています。遭難した場合の責任も登山を企画した側に当然あるわけです。救助という行為はその実施者が公のものであろうが、私人であろうが、基本的にボランティアであり、善意に基づいた行為以外の何物でもありません。
数年前の穂高連峰で起きた救助ヘリの墜落事故を見ても分かる通り、救助する側は命懸けで出動しているのです。実施者が公的機関だからといって、ギリギリで救助作業をしている中での失敗を、法的に過失責任を問えるのか、そこがどう考えてもしっくりこないのです。

 遺族の方々の「かもしれなかった」という気持ちも理解できるのですが、冬季の富士山での救助作業というのは、いかに経験を積んだ救助隊員達でも、ギリギリでの活動であったはずです。それでも救助要請があれば、自分たちの命をかけて出動しているのです。私は仕方がなかったとしか思えない遭難にしか思えません。