2016年2月11日木曜日

山岳遭難について 〜2013年12月富士山頂上付近での滑落 救助出来なかった件〜

 腰椎手術を経た腰の状態ゆえに、最近はまったく山岳へ出かけることもなくなりましたが、冬山の醍醐味や目標を達成した時の高揚感は、いまだに新鮮に思い起こします。そういう私なので、高山の話題やニュースにはどうしても目がいってしまいます。

 ここ最近のニュースで、ちょっと「?」と思った事例について。
全国紙などのニュースによると、2013年12月の富士山へ京都勤労者山岳連盟のパーティーが雪上訓練を兼ねて登山し、頂上付近で4人が全員アンザイレンしたまま滑落し、二人が亡くなり、もう二人も重症を負った。そして、結果的に亡くなった男性一人が、最初の救助時点でヘリに釣り上げようとしていて失敗し、その日に再救助出来ず、翌日救助されたものの、死亡が確認されたという内容でした。その後亡くなったメンバーの遺族が救出失敗の過失責任と損害賠償を求めて訴訟を起こしたとのニュースに違和感を持ったのでした。

 その遭難では別の登山パーティーが救助に参加し、現場での状況の概要をブログで発表しているのを読みました。また、当事者である京都勤労者山岳連盟の遭難報告書もまとめられて、有料で手に入る状態になっているようです。(私は報告書はまだ読んでいません)
亡くなった方がいる遭難について外部者が安易に評論するのも如何なものかという気持ちもあるものの、山に関わっていた事がある私としては、正直、違和感を持たざるを得ないのです。

 登山という行為は、そもそも自己完結を前提とした冒険行為であると私は考えています。遭難した場合の責任も登山を企画した側に当然あるわけです。救助という行為はその実施者が公のものであろうが、私人であろうが、基本的にボランティアであり、善意に基づいた行為以外の何物でもありません。
数年前の穂高連峰で起きた救助ヘリの墜落事故を見ても分かる通り、救助する側は命懸けで出動しているのです。実施者が公的機関だからといって、ギリギリで救助作業をしている中での失敗を、法的に過失責任を問えるのか、そこがどう考えてもしっくりこないのです。

 遺族の方々の「かもしれなかった」という気持ちも理解できるのですが、冬季の富士山での救助作業というのは、いかに経験を積んだ救助隊員達でも、ギリギリでの活動であったはずです。それでも救助要請があれば、自分たちの命をかけて出動しているのです。私は仕方がなかったとしか思えない遭難にしか思えません。

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