2006年10月28日土曜日

ニュースの読み方

毎日、大小様々なニュースが様々なメディアを通して流れている。 もちろんネット上でもだ。ここ何日間は全国に拡がりを見せる「履修不足」問題や教師による生徒のいじめ自殺問題。24日に富山の高校からこの問題が発覚。そして全国へ。後者は福岡など他にも。
しかし「履修不足」が何故今、このタイミングで発覚したのだろうか?まさに教育改革を掲げる阿部内閣直下に「教育再生会議」なるものが発足したばかりの時だ。なんだか、タイミングが良すぎるなぁとついうがった見方をしてしまう。ニュースを単に聞くだけなら、この教育現場の現状に呆れるしかないのだろうが、「ちょっと待てよ」と立ち止まってみた方が良い。物事は「木だけを見ず、森をみる」事が肝要だと。

私は今の学校が全て満足出来る教育をしているとは思っていない。しかし、思うのだ。教師たちにとって、猫の目のように教育政策が変っていく中、子供たちへの指導法も刷新しなければならず、悩みも多かったのではないかと。しかも、少子化で親たちの視線も学校教育へ、より厳しくなっている。それに学校間の目に見えぬ競争意識や学校管理体制の変更(校長への権限の集中)など、その精神的な圧迫感は相当なものではないかと推測できる。もちろん、そのストレスを理由として、教師たちの犯罪や子供たちへの卑劣ないじめなどが許されることにはならない。駄目教師がいることも事実だと我が子を通して知ってはいる。
だが、その教師たちだけが責めを負うものではないだろうとも私は思っている。
罰則を強化したところで、現場に子供たちと夢を共有出来る素地が生まれなければ、ほとんど効果は期待出来ないだろう。

それこそ社会のリーダーたるべき人間達の絶えざる腐敗、単純な「ワンフレーズ」による思考停止や弱肉強食の競争原理導入などが、その土壌を産み育てて来ているのだと。
「教育改革」を言う現政権にとって世論を味方に付けるのに、これらのニュースが打って付けのものだったことは確かではなかろうか。

2006年10月24日火曜日

日曜日に

久し振りに映画を観た。浅田次郎原作『地下鉄(メトロ)に乗って』だ。『鉄道員(ぽっぽや)』が良かったので、観てみようと思ったのだが‥キャスティングと映像作りがいまいちと感じてしまった。観てない人のためにストーリーは省くが、映画はキャスティング次第だということだろう。映像にも深みがなく残念だ。

帰りにクリント・イーストウッド監督作『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』のチケットを購入。二部作だけあって、二枚セットになっている。
続けざまに映画に行くのは、学生時代以来のことかもしれない。今週末の土曜日にまず『父親たち‥』が公開される。米国側の視点から見た硫黄島の激戦とすり鉢山に星条旗を掲げた兵士たちのその後。物事はどういう視点から見るかで、その事象の捉え方は異なってくる。とにかく楽しみにしておこう。

秋晴れが続き、大地は乾燥しきっている。湿りが必要だ。

2006年10月20日金曜日

思いつくままに

暑い暑いと叫んでいたのも嘘のような肌寒さに包まれる時期になりました。確実に季節は巡っています。木々の葉もすっかり落ちて、冬に備えています。

ついこの前まで我々の耳目はアフガン、イラクに注がれていたのが、今はこぞって北朝鮮になっています。アフガニスタンも未だに不安定。イラクは内乱化の様相をみせ、次の北朝鮮はどうなるのやら。。。
20世紀は「戦いの世紀」と締めくくったはずが、この21世紀は「更なる戦いの世紀」になるのでしょうか?国家の誇りとか、民族の誇りとか前面に押し出して言い始めると、ほんとに窮屈になってしまいます。戦争で傷つくより、「エコノミックアニマル」(古いですねぇww)と揶揄されるくらいの方が、私は良いと思うですが。。。

ひさびさに観てみたいと思える映画が近く公開されます。クリント・イーストウッド監督の二部作『父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)』と『硫黄島からの手紙(Letters from IWO JIMA) 』です。すさまじい激戦だったらしいことは、私も聞きかじっていたのですが、詳しい事は知りませんでした。太平洋戦争末期の凄惨な戦いから監督が何を描こうとしたのか、本当に興味が湧きます。『荒野の用心棒』で初めて俳優のクリント・イーストウッドを知ったのですが、その渋い演技に惹かれたことを記憶しています。

先日ニュースチェック中にみたのですが、NHKの国際短波ラジオ放送に対して
総務省が放送命令を出すとか。内容は北朝鮮の問題を重点的に扱えと。まるでVOA(Voice of America)ですねぇ。報道機関は権力から独立していてはじめて報道機関を名乗れると私は思います。NHKは「公共放送機関」ですからねぇ。。。ここら辺が曖昧なところですね。やはり報道機関としては成り立っていない?のかも。

くしくもロシアではプーチン政権を痛烈に批判してきた女性記者が暗殺されています。その記者は以前にも毒殺されそうになったとか。政権中枢にとっては、やっかいな存在ではあったのでしょう。まだその犯人や背景は不明ですが、粛正が常套手段だった過去を考えると。。。

世界から地元に目を移すと、川辺川ダム問題が迷路に。熊本では過去にその後の公共事業に大きな影響を与えたダム建設反対闘争があります。筑後川水系の下筌ダム建設時の「蜂の巣城闘争」というものです。この時の中心人物が室原知幸氏という山林家。この室原氏は当時「山は、天然のダムだ」と言っていたと記憶しています。他に「公共事業は理にかない、法にかない、情にかなったものでなければならない」とも。さて、川辺川ダムは、如何に?もしかして「欲に絡み、法はあてがい、情を蹴散らす」ものになってはいないでしょうか?室原氏の言葉を再確認したいものです。

今日は曇りがちの天気。秋晴れもやっと一息つくのでしょうか。乾いた大地には潤いが大事です。権力の座に座ると、猛烈な欲はあっても、潤いはあるのでしょうかね?乾いてますねぇ。。。今。。。


2006年10月16日月曜日

堰を切ったかのように

まぁ、ここのところ思い切った発言が次々と飛び出して来てますねぇ。
昨日は「抑止力としての核の保有は議論の対象とすべし。憲法でも保有は禁止されていない
」と、自民党政務調査会長の中川昭一という人物がTVで発言してました。政権党の主要人物の発言です。日本は被爆国という意識が欠落しているのでしょうか?とにかく唖然としてしまいますね。日本国憲法の形骸化というより、もう既に無視するというか、そう言う雰囲気を醸成しようとしているかのようです。まぁ、言論の自由は最も尊重されなければなりません。ついでに大いに議論の対象とすべきは、「天皇制」というものもあると思います。民主主義と「天皇制」について、この辺で議論があってしかるべきだとも思うのですが、こっちの方はなんだか、以前に比べてよりタブー化してきている感じがするのですが。。。

加藤紘一代議士の実家が右翼の人間に放火された時、自民党の主要な人物はそれほど大きな反応をみせませんでしたね。靖国参拝や日本の過去の歴史認識で「慎重な態度」だった加藤氏だったからでしょうか?こうした個人テロに対する無反応とか、反応の薄さが更に危険な方向へと日本を導いて行くのかも知れません。

有事法制の論議以降、どんどんきな臭い方へ流れが出来てきているようにしか思えません。流れの行き着く先は、気づいた時には既に遅いのかも知れませんね。

2006年10月12日木曜日

争乱化の兆し

北朝鮮が地下核実験実施の発表をした。爆発後の地震測定結果は、核爆弾開発上で想定されていたものより、かなり小規模という。本当に核爆弾だったかどうかを疑われる所以だ。様々な論評がなされているが、まだ推定の域を出ていないものばかり。これがブラフだったら、周辺各国の慌てぶりを彼の「将軍様」は、どう見ているのだろうか?「してやったり」なのかも知れない。
本当に核爆弾の実験であれば、以ての外であることは言うまでもないのだが、
このような危機なればこそ、冷静な判断、分析が最も必要だ。

今の北朝鮮の有り様は、太平洋戦争に突っ込んでいく時のかつての日本の様相と似ていなくもない。ナチスドイツ、ファシストのイタリアと同盟を結び、他の国々とは没交渉になり、様々な制限を加えられた結果、国際連盟を脱退し、ついには米国と火蓋を切ることになっていくのだった。日本の場合は、それ以前に朝鮮半島、中国大陸に既に植民地も作っていたのだが、国家とか体制などに重きを置く場合、ある種の狂気に包まれると合理的客観的判断が出来なくなるのだろう。その戦いの結果、惨敗を喫し、あの「日本国憲法」を定めたのだと私は思う。確かに、改憲派の人々が言うように、全てを日本人が作り上げたのではない。しかし、戦いの辛酸を舐めた当時の国民の多くは、高く掲げた「戦力の不保持」に未来の燭光を見、そして希望を抱いたに違いない。北朝鮮の指導者には言いたい。「かつての日本を見よ!今の姿勢を続けるなら、衰退と荒廃しかない。」と。

新米の首相である阿倍氏は、憲法改正とともに教育基本法の改正も所信で述べている。子供達に規範意識を醸成する必要があると。その規範を意図するところの行き着く先は、何だろうか?社会、すなわち国家が第一位にあって、その欲することに異議を唱えない規範意識ではないのか?民主主義という皮を被っただけの国家第一主義が心棒に据えられるのなら、ご免被りたい。腐敗事件を起こし続けてきた政界、経済界の要人達の姿を子供達が見聞きして、今のような大人不信の土壌を作ったということも否定出来ないはずだ。子供達は、単に大人の鏡として、その姿を見せているに過ぎない。

指導者達の過ちを正せる社会であり続けたいものだ。

2006年10月7日土曜日

中秋の名月

秋もこの辺りまでくると、木々の葉も落ちて、それらしく装い始めているが、ここら辺りではまだ、紅葉までは間がある。
昨夜は中秋の名月。旧暦で言うと、8月15日になるとか。あらためて、太陽暦と太陰暦の差を納得する。写真をと思ったが、夜半に空は曇りがちで、カメラにおさめるには、少し雲間からのぞく時間が短すぎた。関東以北では台風の影響で、大荒れの天候だった様子。名月どころではなかったろう。月齢で言うと今夜が「満月」 見事に晴れた夜空に煌々と丸く浮かんでいた。

さて、阿倍晋三氏が言われていた通りに、新首相になった。国会の論戦も始まり、さて、新米首相の奮闘ぶりは、如何に。中韓訪問がまとまったが、久し振りの首脳同士のやり取りも注目だ。さて、事前のタカ派ぶりを発揮するのだろうか?それとも、曖昧に誤魔化して、、、

遅くなったが、今日『憲法九条を世界遺産に』を入手。お笑い芸人ではあるが、なかなかの論者ぶりを見せている太田光と中沢新一の対論は、宮沢賢治から宗教、哲学、お笑い芸の波間を漂いながら、「憲法九条」の存在意義を語っている。一読する価値は十分にある。


2006年10月2日月曜日

秋の夜長


記事の投稿をサボっている自覚はありましたが、間隔が空き、すでに10月かぁ。。。
早いものですねぇ、、、時間の経過は。

なにも、季節で感情の有り様を変えることはないのでしょうが、秋になると、どうして、こうも、、、何となく、どことなく、、物寂しさを感じるのでしょうか?(笑)
陽の落ち方が早まり、夜の闇が拡がる時間が長くなるせいでしょうか?

夏目漱石先生と同時期に、上田敏という詩人であり、評論・翻訳家でもあった人がいますが、彼の『海潮音』という訳詩集に ポール・ベルレーヌの有名な訳詩がありますね。「落葉」というものです。

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し

鐘の音に
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや

げに我は
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
飛び散らふ
落葉かな

何故か、学生時代に教科書で覚えたこの詩だけは、未だに忘れずにいます。妙にメランコリックだったからかもしれません。この歳になって、人生の秋のメランコリックな心情に納得しています。