2006年8月27日日曜日

去りゆく夏とさまざまな火






今日8月27日は「日本に原子力の火が灯った日」らしい。1957年のこの日、東海村(茨城県)の日本原研で、臨界実験に成功した日だそうだ。臨界とは核物質が連続して核分裂反応を起こす状態になることだが、その反応を制御せずに一気に起こさせるのが「原子爆弾」だ。同じ東海村のJPCというウラン燃料加工施設で1999年9月末に、燃料加工中のウラン溶液が臨界反応を起こし、作業員が大量被爆するという事故も起きている。被爆した作業員は「青い火を見た」と語ったとか。

同じ「火」でも、夏の夜空を彩る「花火」は華やかで、しかも菊花が開いたような姿は見事だ。約1000年前、中国で発明された黒色火薬以来、その発展のほとんどは、武器としての役割だったのだろうが、「火」が持つ美しさを鑑賞する「花火」への応用もまた、人間の知恵のなせる技だろう。イスラエル、レバノンの国境で、ミサイルや爆弾ではなく、「花火」が打ち上げられる日はいつの日になるのだろうか。美しい花火でも、解消出来ない宿怨なのかも知れないが。

まだ日中の残暑は厳しさを残しているが、朝な夕なに吹き抜ける風にどことなく涼しさも感じられ始めた。異常な気象をみせてはいても、まだ季節が巡ってくるだけでも嬉しいものだ。暑い太陽の「火」から逃れられるのも、間近だと期待したい。


2006年8月20日日曜日

久々に感動!甲子園

見事な投手戦になった駒大苫小牧-早稲田実業。駒大の田中、早実の斉藤どちらも譲らず、息詰まる投手戦を展開する。もちろん内野の守備も投手戦に花を添える1エラーずつという内容だ。1969年の夏、三沢高校の太田投手と松山商業の井上投手の戦いを思い出した。延長18回まで0-0のまま。翌日再試合というものだった。明日の試合はそれこそ総力戦になるのだろう。どちらも悔いを残さず、最後まで堂々としたプレーを見せて欲しい。

球児達の夏も最終日

「雲は湧き、光溢れて、天高く、純白の玉今日ぞ飛ぶ」 夏の高校野球大会歌だ。今日8月20日は、その決勝戦だ。夏の三連覇がかかる駒大附苫小牧と初優勝を目指す早実との決戦。どちらも力量のある投手と打線を誇るチーム同士だから、見応えのある試合になるだろう。

私は野球にはそれ程関心がない方だが、高校野球だけは見る。それは下馬評通りにならない思いがけない事が良く起きるからだ。それに「甲子園」という憧れの舞台に立った選手達が見せる様々な表情が良い。大人びた体や顔つきであっても、悔しさや喜びに涙し、素直な感情を見せてくれる。そこに共感してしまう。

強力な台風ではなかったが、牛歩のようにゆっくり九州を北上した台風10号も日本海方面に去り、今日はまずまずの天気だろう。どんな白熱した戦いを見せてくれるか、楽しみだ。

この甲子園大会が終わると、気分は残暑から秋と私などは感じていたのだが、昨今の気象は、まだまだ残暑の厳しさが続くと思わせる。動植物にもその高温の障害が出てきてるのではないだろうか。暑さに参った身体には秋の涼風が何よりの回復剤なのだが。。。今年はいつ頃になるのだろう。

2006年8月19日土曜日

亀台風去る

迷走して、九州に上陸、停滞した台風10号は大した風雨もなく、どうやら日本海に去った。

2006年8月17日木曜日

亡霊

過去の亡霊が今息を吹き返し、闇の世界から 再び現れてきている。先の戦争で負けた時から、いや、狂信していたものから脱することを拒絶した時から、時間を止め、息を潜め、再び狂信へ誘(いざな)える時が来るまで沈んでたところから、その姿を現してきた。

「普通の国」「美しい日本」。耳に届くかぎりでは、当たり前と響くその言葉で真の姿を巧みに隠したまま、手招きをしている。戦うことの「勇ましさ」だけを称え、加害については「戦争だから仕方がない」と目をつぶり、考えることを止めさせる。

「進め!一億火の玉だ」「神州不滅」と踊らされ、美しくもない 「玉砕」という「自殺」へと駆り立てられた過去を、直視しなければならない。統治者の言葉を鵜呑みすることなく、「人間」として思考し続けなければ、そこに待っているのは「ロボット」と化した「人」だけだ。

自由な言論を封殺し、単純な思考回路を作る。正義か、しからずば不義かという二者択一の極致が、戦いを招く。今はまさにこの二者択一が世の中を覆い始めている。そのどちらでもない幅を生み出すのが、人間の知恵と言うものだ。亡霊に取り込まれぬように、知恵を磨き続けなければなるまい。

2006年8月9日水曜日

オシムJapan 初戦

 トリニダード・トバゴ戦は、招集された選手がどれ位走れるか、それを観察するものだったように思う。内容は前半こそ走れていたものの、後半は足が止り始め、まだスタミナ不足という感が強く出ていた。結果は前半サントスが上げた2得点を守りきり、2-0で勝利。オシム流が発揮されるには、まだ時間が必要だが、ジーコJapanの選手は少なく、新しい招集組の意気込みが感じられ、今後に期待出来そうな予感はした。

 さて、今日は長崎の原爆忌。広島、長崎の被爆者も高齢化が進み、さらに戦争に対する忌諱感が薄れている今、戦争の悲惨さ、残虐さをいかに伝え続けるか、大きな課題となっている。現実感を持って語れる人達に頼るだけではない方策が必要となりつつあるのかも知れない。

2006年8月6日日曜日

原爆忌

 今日8月6日は、61回目の広島原爆忌。3日後は長崎だ。今、若い人の知識から日本がかつて戦争した相手国から米国が抜け落ちているらしい。TVのアンケートでその傾向が見られたそうだ。「歴史は繰り返す」というが、歴史の事象を記憶しなければ、当然繰り返すことになるのだろう。

 世情の方も何度もここで書いているが、「国際貢献」「普通の国家」という名目で、「憲法改正」へと向かっている。憲法だけではなく、心の有り様にも関係する靖国神社も論争化されている。富国強兵の時代につくられた「東京招魂社」つまり「靖国神社」だ。「神の子」つまり、天皇の赤子として国家の為に戦って死んだ時には、この社に神として戻れるという戦死を厭わぬ心の拠り所として、造られたといっても良いだろう。もともと戦死でない者は、祭ってはならないはずの所である。争点化した後が問題だ。阿倍氏はこの論議をどう方向付けていくのだろう?本音は「国家神道」?まさかねぇ。(考えたくもないが、懸念はある)

 国家とは、何なんだろう?イラク開戦時、日本人が拉致された時の政府、与党幹部達の発言や対応を見ていて、「迷惑千万」といった様子しか見せなかったこの国に、忠誠を誓えと言ったところで、虚しさを覚えるのは私だけだろうか?そんな彼等がいくら「道徳」や「立派な国家像」を述べても、それは虚しさを越えて、馬鹿馬鹿しいとさえ思えるのだ。

 しかし、今のところ国に所属していなければならないのだから、少しでもまっとうな国になるように自分たちの知恵を発揮しなければならないのだろう。戦争には断じて荷担しない国、それが虚しくなってしまわないように。

 今日は嫌いな人もいる「蝶」の写真(笑)
 カバマダラと言うらしい。

2006年8月4日金曜日

涼感

 暑い日はエアコンが効いた部屋より、水の流れに涼を求めたいものだ。それで今日の画は、その水の流れを。

 オシム監督が来たるトリニダード・トバコ戦に向け、代表招集の13人を発表した。さてさて、どんなチーム編成をしてくれるのだろうか。楽しみだ。記者達からの質問に対する答え方が私には本当に興味深い。
代表監督発表時には、

――W杯で失った自信をどう取り戻すか。

 「逆に質問したい。期待があったから失望があった。現実を見なければならない。楽観的になれる根拠があったのだろうか。能力以上のことを期待すると失望ということになる」 (asahi.comより)

確かに、「然り!」である。そして今回は

――トリニダード・トバゴ戦の位置づけは?

 「それはあなた方がどう見るかだ。日本が勝つのが確実で、どう勝つかが問題だと考える人がいれば、それは間違っている。負けた場合、あの監督はダメだという意見がすぐに出てくるだろうが、W杯に出たチームで楽に勝てるチームは一つもない」(asahi.comより)

「なるほど」と納得のいく回答ばかりである。監督の頭脳の明晰さが良く表れている。ますます次期チームがどんな姿を見せ、オシム監督がどんな意識付けをし、采配をするのか期待してしまう。

夏の夕暮れ



ジリジリと照りつける陽射しがようやく陰り、肌にあたる空気も和らぐ中をゆっくりと歩いてみる。空を見上げると沈みかけの太陽が紅く空を染める。夏はこの時間が好きだ。子供の頃、染まった空に浮かぶ雲を見て、海を想像したものだった。どうして海だったのか。家族の恒例だった海行きを楽しみにしていたせいだろうか。

 昼日中(ひるひなか)は屋敷林や街路樹から降り注いでいた蝉時雨も、この時間ともなれば忙(せわ)しさも消え、ニイニイゼミの鳴き疲れてくぐもった声だけが響いている。ただ歩くには良い時間だった。

2006年8月3日木曜日

道化と取り巻き

 昨日、「亀田三兄弟」とメディア露出の激しい兄弟の長男、興起の世界戦(?)の試合があった。結果はその兄弟をずっと取り上げてきたTBSの中継を見た人は分っているだろう。第1ラウンドにダウンを奪われ、その後も大した戦いを見せず、最後の3ラウンドはヨレヨレだった興起が判定で「勝った」のだ。

 観客は皆「負け」を思ったはずの試合。 それがどうして「勝ち」に変わったのだろうか?興行の世界では昔から「八百長」が時に見られたりもするが、これは八百長ではないにしても、いささか度が過ぎるような気がする。審判を金で抱き込んだという疑惑が消えることはないだろう。総合格闘技に人気が集中し、ボクシングの人気が低調だから、メディア暴露で「人気」を作ってきたとしたら、昨夜の試合でそのあざとい企みが衆目の前に晒されたと言えなくもない。これはTBS、所属ジムなどの取り巻きが、単なる暴れん坊を道化に仕立て上げたに過ぎないと言えるのではないだろうか?金がついて回るだけに、道化もそれなりに真剣にパフォーマンスを見せなければなるまい。

 陽が当たらないところで真剣にボクシングに取り組んでいる選手達は、どうおもっただろうか?具志堅用高氏などは、その実力について以前から疑問を呈していた。まっとうな方法で本物の選手を育成さえすれば、人気は自然に沸き上がるものだ。作られたものは、いつかは化けの皮が剥げると言うことだろう。とにかく、ボクシングそのものを貶める試合ではあった。

2006年8月1日火曜日

プール事故

 昨日、埼玉で起きたプール事故は、かわいそうな事故でしたね。プールの流れを作るポンプの吸水口の柵がずれ落ち、そこに小学2年生の女の子が吸い込まれてしまい、亡くなったというものです。監視員等の目前で起きてしまったようです。彼等は何故、柵がはずれた時点で客を水から上げなかったのでしょうか?何故ポンプを直ぐに止めなかったのでしょうか?「吸い込まれたら、命に関わる」と想像出来なかったのでしょうか?

 皆さんは今まで、命に関わるかも知れなかったという瞬間を経験したことはありますか?私は子供の時以来、何度か経験しています。小学生の時、木に登っていて寄りかかった枝が折れ危うく下まで転落するところでしたが、「運良く」その下の枝に体が支えられ転落を免れました。同じく小学生の時、川で泳いでいて急流に流されて溺れそうになりましたが、なんとか岩につかまることが出来て命拾いをしたこともあります。また、長じて大学生の時、冬の北アルプスの稜線を進んでいる時、足を乗せた場所が岩場から張り出した雪をかぶった這い松の枝で、もし完全に体重を乗せていたら、スッパリと切れ落ちた谷に真っ逆さまだっただろうと言うこともありました。その他にも山では何度か、命拾いの経験があります。

 こうして考えてみると、今まで良く生き延びてきたなぁと感じます。もっとも、戦乱などと言う、さらに命の危険と隣り合わせというものではありませんけどね。でも、なんと言うのでしょうか、そうした経験が危機を感じる感性とでも言うのでしょうか、そういったものを養ってくれたと思うのです。戦乱などという極めて特殊なものでなくても、いわゆる「普通」の生活の中にも、命の危険は潜んでいるわけで、人はそれぞれ身に付けた「危機センサー」で、身に降りかかる危険をなんとかやり過ごしているような気がします。

 現代は「安全」に対して様々な機能、配慮、告知については、私が子供だった時より格段に整っているのですが、それより大事(だと、私は思うのですが)な危険を察知する感性を身に付ける事が出来ているのか、はなはだ疑問です。そうした感性を身に付けていても、危険から100%逃れられないのが、「人が生きていく」ということなのでしょうけどね。

 今夕、曇りながら空が紅く染まっていたので、今宵の画はそれにします。