2006年8月1日火曜日

プール事故

 昨日、埼玉で起きたプール事故は、かわいそうな事故でしたね。プールの流れを作るポンプの吸水口の柵がずれ落ち、そこに小学2年生の女の子が吸い込まれてしまい、亡くなったというものです。監視員等の目前で起きてしまったようです。彼等は何故、柵がはずれた時点で客を水から上げなかったのでしょうか?何故ポンプを直ぐに止めなかったのでしょうか?「吸い込まれたら、命に関わる」と想像出来なかったのでしょうか?

 皆さんは今まで、命に関わるかも知れなかったという瞬間を経験したことはありますか?私は子供の時以来、何度か経験しています。小学生の時、木に登っていて寄りかかった枝が折れ危うく下まで転落するところでしたが、「運良く」その下の枝に体が支えられ転落を免れました。同じく小学生の時、川で泳いでいて急流に流されて溺れそうになりましたが、なんとか岩につかまることが出来て命拾いをしたこともあります。また、長じて大学生の時、冬の北アルプスの稜線を進んでいる時、足を乗せた場所が岩場から張り出した雪をかぶった這い松の枝で、もし完全に体重を乗せていたら、スッパリと切れ落ちた谷に真っ逆さまだっただろうと言うこともありました。その他にも山では何度か、命拾いの経験があります。

 こうして考えてみると、今まで良く生き延びてきたなぁと感じます。もっとも、戦乱などと言う、さらに命の危険と隣り合わせというものではありませんけどね。でも、なんと言うのでしょうか、そうした経験が危機を感じる感性とでも言うのでしょうか、そういったものを養ってくれたと思うのです。戦乱などという極めて特殊なものでなくても、いわゆる「普通」の生活の中にも、命の危険は潜んでいるわけで、人はそれぞれ身に付けた「危機センサー」で、身に降りかかる危険をなんとかやり過ごしているような気がします。

 現代は「安全」に対して様々な機能、配慮、告知については、私が子供だった時より格段に整っているのですが、それより大事(だと、私は思うのですが)な危険を察知する感性を身に付ける事が出来ているのか、はなはだ疑問です。そうした感性を身に付けていても、危険から100%逃れられないのが、「人が生きていく」ということなのでしょうけどね。

 今夕、曇りながら空が紅く染まっていたので、今宵の画はそれにします。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

プールの事故は、本当に気の毒です。
市町村、行政、業者は事故が起きてしまってから、学習するのでしょうね。(含む パロマなど)

命拾いをしたこと・・・
覚えてないです! ってことは、「ない」のかも☆

一命は取り留めたけど、2歳前から現在に至るまで(11歳)自力呼吸のみできる重度身体障害者。もちろん、見えない、聞こえない、食べれない・・・吸飲もできません!<甥っ子
今夏、彼に久しぶりに会ったけど、人間の形をしてないです・・・生命力ってすごい!
ついでに、妹もすごい!

kurohyge さんのコメント...

>みささん
暑い日々が続いています。

学習してたら事故は減るはずですが、なかなか減っていきません。
ってことは、「対岸の火事」としてしか認識してないって事でしょう。

覚えてないって事は、
1危機センサーが抜群の性能?w
2危機であっても、認識出来ない?w
のいずれか?(爆、チガッww)

確かに、命の逞(たくま)しさと儚(はかな)さは、何かにつけ感じるものですね。
障害のあるなしに関わらず、生命というのは実に不思議です。
(私は以前、障害児・者に関わる仕事をしていました。)