2010年10月6日水曜日

リコールは変革に通じるのか?

名古屋市で実施されていた議会解散に向けたリコール運動が、成立しそうです。有効署名数が、成立必要数を遥かに超えるだけ集まったとか。名古屋市民ではない私ですから、河村市長のいう市民税減税が正しい選択なのか、詳しくは判りませんが、市民の共感を得たという事は言えるのでしょう。

何故、市民が議会議員のリコール反対運動に共感しなかったのでしょうか? それは、多分、市民が感じている閉塞感や鬱積した思いを、議員達が今まで十分に感得せず、自らの有り様を見直してこなかった事に起因するのではと、思われます。議員としての活動のあり方、議会運営などに、従来の方法だけで今後も通じていくという感覚の鈍感さが、結局市民達に見放されたという事なのではないでしょうか?

因習を打破していく事なしに、時代を変える事は不可能だという事ですね。「先見の明」が河村市長にあるとは、あまり感じませんが、議員達より、まだ市民の共感を得るものを持っていたという事でしょう。

リコール運動といえば、鹿児島県の阿久根市でも、市長リコールを求める住民投票実施可能になりそうな署名数が集まったようです。ここも議員と市長の対立の構図は同じように見えますが、衰退していく地方都市の中で、議員達も自らの有り様の改革を怠り、あのような市長を誕生させたと言えます。議会議員達も「先見の明」のある提言をしてきた訳ではなく、やはり従来からの議員としての既得権益維持にかまけていたのですから。言わば怒りのやり場のない市民達の鬱積感が産み出してしまった鬼子とも言えます。

様々な制度、仕組みが作られた時からいうと、既に朽ち始めているのでしょう。しかし、作り直す動きが緩慢過ぎたり、怠慢が目にあまっても怒りは怒りのままで、鬱積感を解消する術がないのです。
しかし、これは、首長や議会だけの責任ではなく、そうした人物達を選んできた選挙民自身の責任でもあります。天に唾吐けば、我が身に落ちてくるということでしょう。リコール後こそが、市民力が試されるのです。

今、ちょっと幕末の雰囲気と似てなくもありません。幕末を彩った坂本龍馬を筆頭に維新に駆け回った人達は、熟しきった幕藩制に危機を感じ、明治維新に向かう大きな牽引者となったのでした。時代が龍馬達を産み出したのかも知れません。

この時代に、先見性を持った人物達が登場して来るのでしょうか? 今のところ、そうした匂いを発する人物はいないようです。さてさて、この先、登場してくるのでしょうか?

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