2011年4月19日火曜日

私たちの選択〜原子力利用のありかたについて〜

4月18日の参院予算委員会をビデオで見ました。
言質を取られないため、そつなく答えている姿を見ていると如何にもエリート然とし、乱れを見せないように鎧を身にまとっている東電の社長の姿は、そのまま監督官庁の役人とダブって見えました。



この委員会の焦点は、大震災発生以降の菅首相の指示や動きへの質疑でした。首相の不手際を攻めても、「ベストを尽くした」としか言えない首相の顔にはほとんど生気が見えませんでした。「ベストを尽くした」事は当然の事で、その内容が問われているのです。あまりに拙さや未熟さ、そして生来の短気が災いを増幅したことはなかったのでしょうかね?
攻める側の野党も共産、社民以外は原発を推進してきた側という事もあってか、事態対応の瑕疵に集中してましたね。
もちろん緊急的対応も大変重要ですから、この時期の議論がそうした事へ集中する事はやむを得ない事かも知れません。

ただ、今回の大震災が示した最も重要な事は、地震対策にしても津波対策にしても、そして原子力利用のあり方についても、自然の力はこうも容易に人知を凌ぐものだという事だと思います。特に原子力については、功利的な人間の考え方で利用が促進されてきましたが、放射性廃棄物の安全確実な最終処理法すら開発途上のまま、利用技術やシステムだけ開発が進み現在に至っています。大深度地下に埋設するなどというのは、当面の誤摩化し的処理法に過ぎません。そのものは無害化されていないのですからね。

技術に試行錯誤はあり得る事ですが、スリーマイル島やチェルノブイリ事故が示し、今回は東電福島原発が示したように、原子力利用というのは一度失敗すると、その負の影響というのは途方もない範囲まで(距離だけでなく社会、経済、国際事象的にも)及ぶということです。今までこれほど大きな失敗に遭遇しなかったのは、たまたま幸運だったに過ぎなかったということです。東海村JOC臨界事故が1999年に起きても、作業員の手順過誤や会社の安全管理に焦点が当たった事で、原子力事故そのものへの警鐘とはなりませんでした。

さすがに今回の原子炉メルトダウン、放射性物質拡散事故(私の予想)では、原子力利用そのものへも焦点が当たるはと思います。多くの人々もそして政治家も当面は危機意識を持ちながら、様々な議論に参加していくでしょう。でもね?この国の住民は「お人好し」が多いですし、そして「忘却」の名人級ぞろいですから、「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」という事になりかねません。それに原子力に関連する産業界、学者団体(つまり学会ですが)、政治家、役人、文化人、そして国営メディアや産業界からの広告で成り立つ商業メディアなどの巻き返し的攻勢が始まる事も確実ですし、そうなれば、有耶無耶になるのは目に見えてる気もしますが、どうでしょう?彼等は実に巧妙ですからねぇ、ほんとに。なんせ、莫大な金を有していますから。

さて、当の原発重大事故の収束だけでなく、原子力利用の議論がこの先、どんな形に収斂していくのか、懸念をもちながら見続けなければなりません。

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